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V9の夢に感謝!「打撃の神様」川上哲治さん93歳の大往生


往年のプロ野球強打者であり監督としても読売巨人軍のV9を達成させ黄金時代を築いた川上哲治さんが、10/28に老衰のため東京都稲城市の病院で亡くなっていたことが分かりました。享年93歳でした。 川上さんの葬儀と告別式は近親者で済まされ、後日お別れの会が行われる予定となっています。

家族の方によれば、今年の春頃までは元気に過ごしていたものの、自宅で転倒して肋骨を折ったことが原因となり持病の心臓病が悪化したようでした。その後はリハビリをするところまで回復しましたが、老衰が進んだ為に亡くなられたそうです。


川上さんの訃報が日本中を巡った10/30には「コナミ日本シリーズ2013」の第4戦が東京ドームで行われました。日本一を決定する巨人VS楽天の同日までの経過は2勝1負と楽天がリードしていた為に、自分は川上さんの事もあって、「これで巨人が負けてなるものか!」という気持ちから珍しくテレビで試合観戦していました。

初回から楽天にリードされて巨人は負けていたものの、川上さんの魂とも言うべき何らかの力が巨人軍の選手達に宿ったのか、逆転に次ぐ逆転の末に6対5で巨人の勝利となり2勝2負のタイへと持ち込みました。楽天も手強くて、結構いい試合だったなと思います。

やはり試合の流れが変わったのは7回裏の巨人打線で寺内の打った打球がラインぎりぎりのライト前フェアになった事からで、この神がかり的な展開が大きかったと感じます。このまま優勝まで引っ張れたならそれが川上さんに対する何よりの贈り物となって、今年は巨人軍にとって特別な年となることでしょう。



天才的なバッティング能力から「打撃の神様」の異名を取った川上さんは熊本県の出身で、1938年(昭和13年)に熊本工業学校(現在の熊本工高)から東京巨人軍に入団しました。巨人軍にとっては当時新球団であった南海をはじめ阪神や阪急との争奪戦の末の獲得だったようです。

入団後の川上さんは初めの1年は成績が芳しくなかったようですが、翌年から才能を発揮し始め19歳で首位打者となりました。のちに戦前~戦後を通じて打撃の第一人者として活躍し、そのライナー性の鋭い打球は「弾丸ライナー」と呼ばれ現在も使われているこの言葉の語源となりました。




こちらは1947年(昭和22年)の11月に開催された東西対抗戦のもようです。各選手の背中には背番号の代わりにEASTとWESTの頭文字である「E」と「W」が付けられています。1分06秒の所で若き日の川上さんが登場して見事なホームランを打っています。

しかし試合の方は延長戦の末に西軍の勝ちとなり、川上さんの東軍は負けてしまったようです。上記映像の終戦後の時代は川上さんの使用した「赤バット」と共に、同年から「青バット」を使用した大下弘(1979年に他界。享年56歳)もホームランを連発して両者は大ブームを起こし、国内のプロ野球人気を牽引していました。 

川上さんは1958年(昭和33年)に引退するまでの20年間に首位打者が5回、最多安打が6回、打点王が3回、本塁打王が2回という栄冠の他、1979試合に出場し、2351安打、打率3割1分3厘、181本塁打、 1319打点という通算成績を記録しました。更には国内で通算2千安打を最初に達成しており、最高殊勲選手(現在のMVP)にも3回選ばれるという輝かしい実績の数々を残しています。




こちらの映像の0分38秒以降は、1958年(昭和33年)に川上さんが選手としての引退を迎える前の最後の打席のもようを伝えるラジオ放送の音声です。前半は当時巨人軍に入団しプロデビューしたばかりの長嶋選手のランニングホームランという貴重な映像が収められています。

奇しくも川上さんは、その後選手としても巨人軍の監督としても素晴らしい実績を収めた長嶋茂雄とすれ違う様にしてこの年に引退しています。1958年という年は巨人軍にとって1つの時代の終わりと始まりとが交差する重要な時代だった事を改めて思い知らされます。

川上さんは引退から3年後の1961年(昭和36年)に巨人軍の監督に就任し、日本シリーズではセ・リーグに11回勝利し優勝を果たしています。1965年(昭和40年)に選手として野球殿堂入りが決定した事から、巨人軍(読売ジャイアンツ)は1965年の1月に栄光の背番号「16」を永久欠番としました。

やはり特筆すべきは同年から長嶋茂雄と王貞治を主戦力として9年連続日本一のV9という偉業を成し遂げた事でしょう。その後1974年(昭和49年)に監督を退いた川上さんは、監督としての通算実績で1066勝739敗61引き分けという記録を残しています。

自分は往年の川上さんが選手として活躍した戦前・戦後の時代を知りませんが、1960年代には川上監督と王、長嶋の両選手の大ファンでした。冒頭の記事の毒蝮三太夫(77)の発言にあったのと同様に、銭湯に行くと下足札や脱衣場のロッカーの番号は彼らの背番号にちなんだ「16」や「1」や「3」を選んでは悦に入っていた記憶があります。

しかし午後3時の開店から少し遅れて行くと、恐らく同じ目的を持つ他の誰かによって「1」や「3」が既に取られてしまっていることがよくありました。それでも「16」さえ残っていれば満足で、この喜びは「巨人、大鵬、卵焼き」という言葉があった時代を知る方ならばご理解頂けるかと思います。今風の言葉で言えば、「巨人ファンあるある」という事になるでしょうか。

生家が昔の巨人軍の練習場だった多摩川グラウンドからほど近かったので、1960年代の初頭から休日には巨人軍の選手達を見によく出かけました。野球少年だった自分は新聞やテレビでしか目にすることのできない本物の川上さんをはじめ、王、長嶋、金田、広岡、土井、柴田、柳田といった往年の選手達、そしてまだ新人だった頃の堀内投手の姿などがとても神々しく思え、帰宅してもしばらくの間は胸がドキドキしていました。

地元の人ならばよく知っている当時の巨人軍の選手達の憩いの場、多摩川の沿道にある「小池商店」にも時々行って、おでんや焼きそばを食べたりしました。すぐ目の前に王選手が立っていた時はまともに見れず、体がこわばって身震いしたこともあります。

そのお店は今も残っているので驚きました。正式にはグランド小池商店という名称でしたか…。
遠い昔の懐かしい思い出が蘇ってきます。 → グランド小池商店 【食べログ】


これまでに若くして亡くなられた往年の球界の選手達も多かったなか、彼ら1人ひとりを静かに見送りながらも93歳という年齢まで生き抜いてくれた川上さんは大往生だったとニュースでは報じられていました。それは自身も同感です。

幼少期の頃から自分にとって川上さんの存在はとても大きく、大人になってからもV9を達成するなど
幾つもの夢を叶え、希望を与え続けてくれました。

ありがとうございました。そして、お疲れ様でした。
川上哲治さんのご冥福を心よりお祈りします。











 

   


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