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サンミュージック相澤会長の訃報に芸能界から悲しみの声届く


5/24に大手芸能プロダクションのサンミュージックの創業者であり取締役会長の相澤秀禎(本名・与四郎→芳郎に改名)さんが死去したと伝えられました。多くのアイドルを世に送り出した相澤さんは膵臓がんを患い療養中でしたが、5/23の午後10時27分に都内の病院で83歳の生涯を終え帰らぬ人となりました。サンミュージックからマスコミ宛てに届いたFAXによる訃報の内容は以下の通りです。

          【 訃報 】

弊社代表取締役会長 相澤秀禎儀(享年83歳)かねて
病気療養中のところ
5月23日 午後10時27分永眠いたしました。
ここに生前の厚誼を深謝し謹んでご通知申し上げます


相澤さんの通夜は5/28に行われ、葬儀は翌5/29の午前11時より東京・港区の青山葬儀所で、葬儀委員長の相沢正久、喪主の妻・てるさんによって執り行われる予定です。

かつて昭和の時代に西郷輝彦(66)や森田健作(63)などのスターを生み出し育て上げてきた相澤さんは、芸能界の重鎮と呼べる人物でした。デビュー当時の松田聖子(51)、酒井法子(42)らを自宅に引き取り下宿させ公私に渡り面倒を見ながらアイドルに育て上げるなど、タレントへの面倒見の良さでも知られています。

「相澤さんは、それまで興行中心だった昭和の芸能界で、エンターテインメントビジネスとしてのプロダクションを確立し、自らもアイドルとともにマスコミに露出して健全さをアピールした功績は大きい。」 と芸能ジャーナリストの渡邉裕二がコメントしています。確かにかつての相澤さんは良きにつけ悪しにつけ、事ある毎に自ら同社の代表としての顔をメディアに出してきました。

2009年に相澤さんは酒井法子(42)が覚せい剤取締法違反の罪で起訴された事を受け、一時は会長職を辞任しましたが、その後再び復帰し後進の育成に尽力していました。50年に渡り芸能界を支えてきた相澤さん流のタレントの育て方は、家族関係が大事であるという考えから新人タレントを自宅に下宿させ食事を共にするというもので、既に故人となってもその偉大な業績は輝き続けることでしょう。




こちらは相澤さんの訃報を伝える「FNNスーパーニュース」(フジテレビ系)の映像です。昨年11月に膵臓がんが判明し闘病生活に入っていた事を報じると共に、サンミュージックが初めて世に送り出したタレントだった千葉県知事の森田健作や酒井法子らが悲しみのコメントを伝えています。




こちらも相澤さんの訃報を伝える「ANNニュース」(テレビ朝日系)の映像です。神奈川県横須賀市出身の相澤さんの芸能界との関わりが大学在学中にカントリー&ウエスタンミュージックのバンドを組み、 演奏活動のかたわら歌手のマネージメントにも携わるようになった事から始まったと伝えています。

サンミュージックは国内でも大手の芸能プロダクションとして多くの芸能人を輩出してきた輝かしい歴史を持っていますが、亡くなられた相澤さんはかつて2度の大きな危機を迎えています。その1つは、1980年代初頭に始まったアイドルブームが頂点に達していた1986年に起きた悲しい事件でした。

1983年の3月にタレントオーディション番組「スター誕生!」の決戦に勝ち残りチャンピオンとなった岡田有希子(享年18)がサンミュージックにスカウトされ同社に所属すると、当時はポスト松田聖子と騒がれる程の絶大な人気を博していました。

しかし残念な事に、およそ3年間の彼女の芸能活動は自らの命を絶つという形で終わりました。しかもそれがサンミュージックの入っているビルの屋上から飛び降り自殺を図るという悲惨極まりない最期だった事を今の若い人達はあまり知らないと思います。

その原因は岡田の24歳年上の俳優・峰岸徹(享年65)との恋愛が破局した事によるものという説が有力ですが、真相は定かではありません。さすがにこの時ばかりは相澤会長も社員達も無念な気持ちだったろうと思われ、同社始まって以来の試練の時を迎えていたのではないでしょうか。




こちらはYouTube上に残された事件当日の様子の映像です。気の弱い方、神経質な方、感受性の強い方は決してご覧にならないで下さい。現場の路上にはまだ毛布に包まれた本人の遺体が残されている場面があり、生々しい雰囲気が伝わってきます。

芸能リポーターの梨本勝(65)が仕事とはいえ東京・四谷4丁目交差点の角にあった当時のサンミュージックの事務所に顔パス状態で入り込み、まだ事件が起きた直後で動揺を隠せない同社の専務にインタビューしています。

岡田は同日、リストカットによる自殺未遂を起こしていましたが、救助され病院で手当てを受けた後に同社に連れて来られソファに横たわり休息していました。梨本はこの現場に駆けつけた当初、飛び降りたのは同社の女性芸能マネージャーであるとの誤報を信じていました。

手にマイクを持ちリポートするお決まりのスタイルで真相の分からぬままエレベーターに乗って同社に入り込んで「相澤さーん。」と呼ぶと、梨本は一旦シャットアウトされています。しかし、4分26秒の所で別のドアから社内に入り込み社員に状況を尋ねると、それが岡田自身であった事を初めて知らされます。


1人のアイドルタレントの自殺直後の現場でこうした図々しいスタイルでの取材はまず現代では絶対に無理でしょう。決して撮影も取材も許可されないであろう状況下ですので、よくこんな取材ができたものだなと呆れます。反面、それは当時の取材スタイルが現在よりも大胆で、事務所の体質も無防備だった事を物語っています。

この映像はヤラセでも何でもなくリアルに起きていた事ですから、見ているうちに当時の記憶が蘇ってきます。梨元は更に事務所の奥へと入り込み、恐らくぶっつけ本番のアドリブで行っているであろう取材に福田時雄専務が応じて淡々と状況を説明していますが、内心はまだ頭の中が真っ白だったのではないでしょうか。

福田専務は、ちょっと目を話したスキに休息していた筈の岡田の姿が消えている事に気付いて辺りを探し、屋上に上がるとそこにはスリッパが残されており、地上を覗き込むと路上に叩きつけられた岡田の姿があり、周囲が大騒ぎになっていたと語ります。その時、福田専務はリストカットで死にきれなかった岡田の決意が本当だった事を知り、初めて自身の認識の甘さに気づいたのでしょう。


実は偶然にも自分はこの日に当時働いていた会社の製品の納品の為に同僚の営業担当者に付き合い、数時間後のこの現場を通過してすぐ近くにある取引先の会社を訪れています。古い記憶をたどって思い出したのは、その時自分が現場周辺の交差点で目にした10代前半と思われる少年少女達が2つ3つのグループを作って路上にしゃがみ込み、その誰もが泣いているという光景でした。

とっさに自分は「何だ。みんな泣いてるわ。おかしいな…。」と心の中でつぶやき同僚と「何だろうね。」と会話を交わしましたが、仕事中だったので2人共朝から全くテレビは見ておらず、その場所で一体何が起きていたかも全く分からずに不思議な気持ちのまますぐ近くの取引先の会社で納品を済ませると、再び交差点を通ってそのまま2人で会社に戻り定時で退社しました。

その日は前の晩から寝不足だったので帰宅してすぐに倒れ込んで寝てしまいました。腹が減って夜に目を覚ますとちょうど10時で、何気なくテレビをつけると久米宏の時代のニュースステーション(テレビ朝日系)で岡田の自殺報道と共に昼間訪れた四谷4丁目の交差点の現場がVTRで映し出されていました。

「えっ!ここは…。」と驚いて、ようやく自分はその場所で何が起きていたのかを理解できました。真っ先に脳裏に浮かんだのは路上に集まって泣いていた少年少女たちの姿で、何も知らずにその場所を昼間通った事に寝起きの自分はたいそう奇妙な感覚に陥りました。蛇足ですがこの1986年の4/8という日は沢尻エリカ(27)の誕生日だったりもしますが…。

この事件があった後は業界での同社の評価は一時的にガタ落ちとなり、数年後には主力タレントだった松田聖子(51)と早見優(46)が別の事務所に移籍するという危機を迎えていました。相澤会長がまだ社長だった頃には、こうした大きな試練を乗り越えてきた時代もあったのです。


そしてもう1つの危機は、2009年の8月に酒井法子が覚せい剤を使用したとされる容疑で同取締法違反により起訴され、更に本人が失踪して行方不明となったという、まだ記憶に新しい事件でした。




こちらは2009年の3月末から1年間に渡り放送されていたニュース番組「THE NEWS」(TBS系)の映像です。同年8/4の酒井法子の起訴と失踪を受けて、奇しくもその前日の8/3にすぐ近くへ移転したばかりのサンミュージックの新しい本社で行われた緊急記者会見の生放送のもようです。

この映像は全部でパート3まである会見の中のパート2です。2004年の12月に相澤さんは同社の会長となり社長の座は長男の相沢正久に委ねていますので、この事件の主な対応は新社長が行っています。相沢社長は酒井との足掛け24年に渡るタレント契約の解除、つまり事実上の解雇を断腸の思いで行った事を発表しています。

4年前から酒井が覚せい剤を使用していたと記者に指摘された事から「騙された」と発言していますが、これは質問に促されている面もあったと感じ取れます。相澤会長は酒井の失踪の前月の7月に社長と3人でブログの写真を撮った際にふと酒井を見て、「ずいぶん痩せてるな。」と感じたものの、それが覚せい剤の影響によるものと気づかなかったと語っています。

続いて5分36秒の所で記者から受けた質問に対して、現在は判決後の酒井に対して手を差し伸べることは無いと答えていますが、酒井の出頭から逮捕後、そして出所した後までの経緯を見ると、それは会社として無いという話で、結局相澤さん親子が自ら手塩にかけたタレントである事から個人的に酒井を支援してきたというのが実際のところです。

更に酒井の出演しているCMが打ち切りになる事から発生する違約金についての質問がありましたが、相沢社長はノーコメントとしています。実際これは相当な額に上っていた筈でしょう。更に所属タレントに対する監督責任について記者から問われると、「責任は感じている」と答えており、4年前から酒井の覚せい剤使用についての噂があった事に関しては、激痩せしていた事を失踪の1ヵ月前に知ったがそれ以外は何も分からず、そぶりすら見せなかったと話しています。


酒井は失踪の後に自ら東京・文京区の富坂署に出頭して逮捕となる前に、育ての親である相沢さん宛てに一通の謝罪の手紙を送っていた事が後日明らかになっています。その手紙には、「本当に 本当に ごめんなさい ごめんなさい」と綴られていたそうです。結果として計り知れないマイナスイメージを同社に与え、謝っても済まされない事件を起こした酒井は最も出来の悪いタレントになってしまいましたが、相澤さんとのお別れには他の芸能人とは異質な想いを抱いたことでしょう。

決して同情するつもりはありませんが、酒井が18歳だった1989年の5月に父親が自ら運転する車で交通事故を起こし他界している事から相澤さんが父親代わりだった面もあったろうと思います。一部では酒井の父親は借金に苦しんで自殺したとの説もありますが、その時まだ未成年だった酒井と弟の為に葬儀を仕切ったのは他ならぬ相澤さんでした。こうしたファミリー的な付き合い方を絶えずタレントに対して行ってきたのが相澤さん流のやり方でした。

思えば酒井のデビューもまた奇遇で、1985年末にドラマ出演が決まり、上記の岡田が他界した直後の1986年4月にアイドルグラビア誌「Momoco」が開催したオーディションで「第2回ミスモモコ クラブ・ミスVHD賞」を受賞した事から本格的に認められ、まるで岡田とクロスフェードするかの様に一方は破滅を迎え、もう一方は晴れて芸能界入りしています。2人は同社との関わりの中で何らかの因果で結ばれていたのでしょうか…。


「秀パパ」の名で慕われてきた相沢さんの突然の訃報に、酒井を始め多くの芸能人から悲しみの声が寄せられています。それらのうち主なものを以下に掲載します。

【 酒井法子 】
「相澤会長。ご逝去の報に接し、幾多の厚情を思い、痛切の念でいっぱいです。いつも太陽のように暖かな笑顔で励ましの言葉をかけ続けてくださり本当に有難う御座いました。心から御冥福をお祈りします。」

【 松田聖子 】
「あまりの悲しみにまだこの現実を受け止めることができず言葉になりません。今はただ、相澤会長様のご冥福を心からお祈りするばかりです。」

【 森田健作 】
「本当に相澤会長は愛情があり包容力のある人で残念でなりません。まさしく今の私があるのは芸能界での育ての親である会長のお陰です。まだまだ元気で居て欲しかった。本当に残念です。」

【 西郷輝彦 】
「鹿児島からの家出少年を世に出して下さった恩人、相澤さん。「もう駄目かもしれないけど、輝ちゃんとはいい思い出ばかりでありがとう」公演中の博多で聞いた最後の電話。26日には東京へ帰るから待っててね。23日までがんばってくれたんですね。僕も「相さんありがとう」って心から感謝の声を送りたい。50周年を迎えた今、僕にとって、やはりあなたが一番大きな存在です。」

【 都はるみ 】
「都はるみを育ててくれた恩人が天国へ逝ってしまいました。いつも元気な笑顔で迎えてくれる姿にちからをいただいてきました。もう一度、お礼を言いたかったです。さみしいです。」

【 北島三郎 】
「今年3月、明治座の舞台公演の時に久しぶりにお会いした。その時は具合の悪そうな感じではなかったので、びっくりしています。今日まで頑張って立派なプロダクションを抱えて、それでも最初の根っこの 大変な時代を支えて、今のサンミュージックがあるのだから相澤さんは立派でした。よき友としてまた1人旅立っていったのは寂しい。御冥福をお祈りします。」

【 野村将希 】
「相澤会長とは、自分が16歳の時からお世話になり、芸能界の父親的な存在でした。当時はまだ小さな事務所でしたが、共に大きくなるサンミュージックを一緒に見て来ました。アメリカ留学も経験させていただき、そこで新たな自分を発見する事ができました。今の自分があるのも相澤会長のおかげです。本当にありがとうございました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。」

【 塚本高史 】
「突然の訃報にただ驚くばかりです。年始のご挨拶でお会いした時にはいつもと変わらぬお元気な会長さんでした。今想えば、当時中学生のレッスン生だった僕をプロダクションのタレントに引き上げて下さったのも会長さんでした。とても忘れることのできない恩人の方です。感謝の言葉はとても一言ではあらわすことはできません。今はただご冥福をお祈りするばかりです。」

【 太川陽介 】
「優しさの中に雄々しさを感じさせた会長のまま、静かな最期でした。いつも心の奥底にあった大きな支えでした。そして何より、会長の深い愛に、心よりありがとうございました。」

【 香坂みゆき 】
「急な訃報で大変驚いています。最近は直接お目にかかる機会もなかったので、とても残念です。14歳でサンミュージックからデビューさせていただき、それ以来、どんな時もいつも元気で、誰よりもニコニコな笑顔で迎えてくれた、心のあたたかい方でした。タレントには本当にやさしく、怒った顔は一度も見たことはありません。これからも、満面な笑顔の相澤会長のことを忘れることはないでしょう。長い間お疲れ様でした。そして、ありがとうございました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。」

【 早見優 】
「今朝、相澤会長の突然の悲報を伺いました。未だ信じられない思いです。私がハワイでスカウトされた時に、会長はバイリンガルの歌手を探していたそうで、そのことがきっかけで、私が日本でデビューを 果たすことができました。3月にお会いしたときに、まさか、そのときに癌を患っているとは、思いませんでした。とても悲しいです。3年前に私の父も癌で亡くなりました。会長もきっと痛みがあったでしょう。 今は安らかに天国にいらっしゃると思うと、悲しいですが、痛みから解放されて、良かった、という気持ちです。心からお悔やみ申し上げます。May you rest in Peace」

【 ベッキー 】
「相澤会長。私を芸能界へと導いてくださり、ほんとうにありがとうございました。私の芸能活動のすべてを見守ってくださった会長にもうお会いできないと思うと寂しいです。悲しいです。サンミュージックプロダクションの太陽をひとつ失った想いです。ライブ後や、番組の放送後にかけてくださった優しいお言葉。そして見せてくださった笑顔。すべてが宝物です。病室で握った会長の手の温もり、会長がいつも抱いている心の温もり、忘れずにこれからも歩んでいきます。大きな出会いをありがとうございました。深く、深く、感謝しております。心よりご冥福をお祈りいたします。合掌。」


5/24放送の情報バラエティ番組「ミヤネ屋」(日本テレビ系)では、かつてサンミュージックプロダクションに在籍していた俳優の竹本孝之(48)が同番組の司会の宮根誠司(50)の電話インタ ビューに応じていました。以下はその内容です。

宮根 「竹本さん、相澤会長の体調が悪いというのはご存知だったんですか?」
竹本 「いや、私、昨年の11月にCDを出すことになりまして、その事で会長のところにお話を伺いに行ったんですけれども、その時はまだ全然そういうそぶりもなかったですね。」

宮根 「竹本さんが、相澤会長がお亡くなりになったと聞いたのはいつでしょうか?」
竹本 「昨夜の12時…」

宮根 「竹本さん、びっくりされたでしょう。」
竹本 「私…、会長というか「親父」がちょうど50ちょいですか…の頃にずっと下宿させて頂いたんですけれども、その当時から健康には気を遣う方だったんですね。高麗人蔘だとかそういうものをその頃から飲んで、朝も歩くしゴルフも始めて動くしというので気をつけていらして、肌の色艶もとても素晴らしく良かった方だったので、もうあり得ないなと思いました。」

宮根 「50代の相澤会長に知り合った竹本孝之さんも下宿をされて、とにかく相澤会長というのはご自身が育てているタレントさんていうのは、もう家族関係が大事だというか家族の様に下宿をさせられていたと聞きますが、どんな方ですか?」
竹本 「いや、もう。親父ですね。すっかり親父ですね。厳しく、優しく、本当に我が子に接するかのように接していただいて。」

宮根 「じゃ、もちろんその、お仕事の面でもこうしろ、ああしろ、こうした方がいいぞというアドバイスもあれば、プライベートとして人間として男としてこうしなきゃいけないという親父のような事もおっしゃってる?」
竹本 「芸能人である以前に一介の人間であれと、1人の社会人であれという話はよくされていました。」

宮根 「その一方でね、まあ我々ですと桜田淳子さんを始め松田聖子さん、それから酒井法子さんと、数々のトップアイドルを育てていらっしゃった訳ですが、その辺りの手腕・プロデューサー力というのはどういう風にお感じですか?」
竹本 「親父は常々言ってたんですけれども、私は元々西郷さんもそうですし、男性を手がけてやってきたんだと。サンミュージックを立ち上げた時は森田健作さんでしたし、男性をやりたいんだけど何か分からないんだけれども女性が売れると。それについてはよく言ってましたね。」

宮根 「でも今はベッキーを始め、お笑いの方々も沢山いらっしゃるんですよね。」
竹本 「あぁ、そうですね。お笑いの方々、沢山いらっしゃいます。はい。」

宮根 「何ですかその、まあ80を超えていらっしゃって、アンテナの張り方っていうのは凄いんじゃないかなって僕は常々思っていたんですが…。」
竹本 「ブログやられているのご存知な方も沢山いらっしゃるかと思うんですけれども、色々なメディアに対して垣根が無いっていうのが凄いなぁという所でした。」

宮根 「竹本さんとすると芸能界の恩師というよりも自分を育ててくれた親父が亡くなったという喪失感ですか?」
竹本 「たぶんサンミュージックに関わった人間すべてがそうだと思います。」

宮根 「そうですか。はい。分かりました、竹本さんお忙しいところをどうもありがとうございました。」
竹本 「とんでもございません。どうもありがとうございました。」


この竹本の話の通り、相澤さんはサンミュージックに所属する様々なアイドルやタレント達をまるで我が子の様にして育ててきたことから、その誰もが自分の父親が亡くなったかの様な気持ちを抱いているに違いありません。



相澤さんは上記の北島三郎(76)のコメントにもあるように、今年3/7の北島の明治座での公演に出向いた時はまだ元気だったようで、会長自身のブログにその時のもようが綴られています。サンミュージックは今回の訃報と共に、相澤会長が事務所のタレントと社員に宛てた以下の遺言を残していたことを発表しています。


皆さん、日々のお仕事お疲れ様です。

皆さんには僕の病気治療で大変心配をかけました。とても申し訳なく思っています。一日でも早く健康を取り戻し、また皆さんと一緒に仕事をしたいと治療に専念してきましたが、難しくなりました。

サンミュージックがスタートしてから46年間、今まで本当にたくさんのタレントさん、社員の皆さんに助けてもらい、今日までやってくることができました。

いろんな事がありましたが、全ての事がとても素敵な思い出になっています。一人一人に会ってお礼を言いたかったのですが、それも叶わないようです。

皆さんと一緒に仕事ができたことは幸せでした。皆さんのおかげで楽しく素晴らしい人生を送ることができました。感謝しきれません。本当にありがとうございました。

僕がいなくなっても皆さんがサンミュージックを盛り立てていってくれる事をわかっているので安心しています。相澤正久社長、タレントの皆さん、社員の皆さんが一つになり、これからもサンミュージックの一員として、力を合わせて頑張って欲しいと願っています。皆さんはこの先もずっと僕の大事な家族です。皆さんの活躍をこれからも見守っていますね。

皆さんと出会えて一緒に仕事ができ本当に幸せでした。皆さん、ありがとう!


相澤会長がこれを残したのは自らの死を覚悟した上での事だったと思われますが、日付は記されておらずただ「5月」とだけ書かれていたそうです。自身の病の事については極力触れず、これまでの事を周囲の者たちに感謝すると共に自分がいなくなっても全てを任せることができるという気持ちを述べている事から、その優しい人柄が伝わってきます。

時は流れ移ろいやすく、こうしてまた日本の芸能史の中で1つの時代が終わりを迎えました。今となっては古臭かったり当たり前の事でさえ、当時は何もかもが新しかったのです。そんな時代の中で起きていたかつての女性アイドルタレントのブームは、もうはるか昔の出来事として多くの人の胸の内に残る思い出となりました。

芸能を通じて人に夢と希望を与え、その1人ひとりの青春時代の淡い思い出を陰で支え、「生涯マネージャー」の人生を貫いた相澤さんの功績に感謝の気持ちを捧げたいと思います。

相澤さん、ありがとうございました。 そして、長い間お疲れ様でした。
どうか安らかにお眠り下さい。











   


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